相模原殺傷事件 裁判前日集会に行ってきました
おはようございます、こんにちは、こんばんは。
今日はちょっとマジメです。
いよいよ明日になりました。相模原殺傷事件の裁判が始まります。
「障害があることが不幸をつくりだしている」と植松被告は訴えます。植松被告の言葉は重度の障がいをもつ子と暮らす私にとって衝撃でした。「何のために生かしているの?」「生きる意味あるの?」「税金に負担かけてるんでしょ?」大きな問いでした。
その問いはそうまとの日々で自分の中に答えがでてくるようになりました。「何にもできない」ことが人と人を繋ぎ、どれだけ人を笑顔にして豊かにしてくれるか、実感できるようになったからです。そうまはスゴイ(親ばか)。
しかし、自分が感じられるようになっても、社会には伝わらないだろうなあとも思います。今の資本主義で効率主義な社会の中で、自分を社会に合わせながら歯を食いしばって頑張っている人は大勢いる訳ですよ。そして、学校に行けなくなっちゃったり、うつ病になっちゃったり、リストラされちゃったり、色んな意味で「負け」ちゃう人もいる訳です(私は勝ち負けじゃないとではないと思ってますが、社会からみたらねということ)。そんな人たちからしたら、そうまのような「何にもできない」人を良しと思えないと思います。良しとしてしまったら、頑張ってる自分を否定することになっちゃうから。
伝えていくって難しい。伝わる言葉って何だろう。どうしたらよいのかなあと日々考えるようなりました。大きな断絶があるような気がしています。軽く頭がクラクラします。
私に何かできることがあるのか考えるいい機会かなと思って、そうまと集会に行ってきました。
ともに生きる社会って?
さて、前置きが長くなりました。マジメに書きすぎて疲れてしまったので、この後はざっくりと集会の報告をしたいと思います。集会には100人くらいいたかな。障がいを持っている当事者の方が多かった印象。色々な立場の方が発言をされていました。時間いっぱいいっぱい、ひとりひとりの想いが白熱していました。
その中で個人的になるほどと思ったのは
① 事件がおきた津久井やまゆり園の生活は利用者にとって劣悪だった。
② 利用者が活き活きと生活している施設であったら、植松被告はあのような考え・犯行に及ばなかったのではないか。
③ 施設ではなく、地域で暮らしていける社会を目指さなければならない。
この3つです。
津久井やまゆり園の生活の実態としては、利用者は拘束され、日中の作業も週に2日から3日、しかも1時間くらいという短時間、さらに作業と言っても車に乗ってドライブだけ、それ以外は放置されていたらしいんです。
これじゃあ利用者は活き活きとせず、介護する職員さんも利用者さんの笑顔なんて見れないだろうから、しんどいよな〜と感じました。
この事件を起こしたのが、元職員だったという観点を忘れちゃいけないということかもしれませんね。施設を無くせば良いとは思いませんが、勉強になりました。
恥ずかしい・・・
全く余談なんですが、この集会にテレビの取材が来ていました。車椅子の子どもを連れているおっさんが珍しかったのかインタビューを受けました。テレビカメラを向けられているという照れもあって、フワフワっとした受け答えをしてしまいました。
自分の中で明確なものがなく、何となく集会に来てしまったのが受け答えに出てしまったなあと猛烈に反省をしつつ、「まあテレビで流れることはないだろう」と帰宅してミートボールを子どもたちと食べていたら、色んな人から「テレビ出てたよ」と連絡が・・・。
たまたま自動的に録画してあったチャンネルだったので、早速オンエアチェック。
マヌケ面が何かしゃべってました。ほんの数秒。名前出てないし、何で皆分かったんだろう、よく見つけたなあ・・・。ユマとマイは大笑い。明日、学校と保育園で言おうとキャーキャー言っています。私としては不本意なインタビューだったので、とにかく恥ずかしい。
そんな私にテレビを見たと電話してきた(数年ぶり!)友人が言ってくれました。「何を言ったかじゃなくて、当事者が言ったことに意味があるんじゃない?」
そうでした。最近かっこ悪くても「できること」をやろうと決めたんだった。確か昨日だった気がする(笑)。ありがとう。
明日、そうまと裁判の傍聴に行ってきます。「できること」をしてきます。
おそらくすごい数の人が来ているだろうなあ。抽選に当たるといいなあ。
ではでは。