パラリンピックを考える 〜共生社会は誰のため?〜
おはようございます、こんにちは、こんばんは。
今日は昨日続き、パラリンピックを見て感じたことを書いていこうと思います。
テーマは共生社会について。
まずは共生社会の定義から。「共生社会」と検索すると、一番上に出てくるのは文科省のHPでした。その中に定義があったので抜粋しますね。
「共生社会」とは、これまで必ずしも十分に社会参加できるような環境になかった障害者等が、積極的に参加・貢献していくことができる社会である。それは、誰もが相互に人格と個性を尊重し支え合い、人々の多様な在り方を相互に認め合える全員参加型の社会である。(文部科学省HPより抜粋)
「共生社会の実現に向けて」という題名で他にも、インクルーシブ教育(障がいのあるなしに関わらず共に教育を受けること)、障害者の権利に関する条約のことが書かれていました。
理念としては、全ての人の尊厳が守られる社会にしていきましょうということなんだろうけど、気になるのは共生社会は障害者のためですと、見えちゃうこと。今まで社会参加できなかった障害者も社会の一員ですよ。みたいな。
おそらく共生社会にしていくために障害者を理解し関わりましょうということなんだろうなあ。
整理すると、
目的が全ての人の尊厳が守られる社会にしていくこと。
手段が社会が障害者を受け入れていくこと。
こんな感じでしょうか。
この手段と目的がごっちゃになっちゃっている気がするんです。
パラオリンピックを見ても、「もっと障害者スポーツができるように環境を整えていきたい」「障害者が生きやすい社会に」といったメッセージが多く出ていたように思います。障害者のためと。
それはそうなんだけど、健常者のためでもあるということをもっと伝えて欲しかったなあというのが正直な感想。
それは、共生社会はみんなのため、もっと言えば健常者のため、とも言えると思うからです。そう思う理由は次に書きますね。
みんな生きづらい
健常者の世界は気づかないだけで、実はかなり苦しい状況にあるのではないでしょうか。その人らしく生きられる社会になっているのでしょうか。
自分がソウマのお陰で楽になったから伝えたいのですが、もっと健常者は障害者から学べると思うんだよなあ。その人らしく生きられるようになれるといいと思うんだけど。
ただ悲観してばかりではなく、光も見えてきた気がしています。
奇しくも、オリンピックでのこと。
テニスの大坂選手やアメリカの体操選手は自身の精神状態について触れていました。
陸上で金メダルを分け合った選手もいましたね。
スケートボードも面白かった。他の選手が上手くいったら賞賛し、失敗したら慰める。国や順位は関係なく励まし合う姿がありました。
アスリートだって人間。
勝ち負けより大事なものがある。
色々なものに縛られて生きてきた人が、その呪縛から解かれその人らしく生きていくという姿だったんじゃないかな〜。
新しい時代を感じました。
「自分らしく」「ありのまま」
障害の世界で大事にされている祈りのような、この考えは健常者の世界にこそ今必要だと思います。
👆 明日からソウマはレスパイト入院です。ユマがブレスレットを作ってくれました。子どもたちみんな(赤ちゃんも)の分があります。ソウマが頑張れるようにって看護師さんが提案してくれました。部品も用意してくれました。ありがたいですね。
何度も失敗しながら、ユマが一生懸命作ってました。
心が温まる素敵なものになりました。みんなで支え合っていこうね。
共生社会はここにあるっ!なんちゃって。
ではでは。