再審請求
おはようございます、こんにちは、こんばんは。
ブログを書くときには、予め「今日はこのことを書こう」と決めていることがあります。今日は4月の最後の日。頭の中で「4月は色々あったなあ。子どもたちも親たちも。大変だったけど、何とか乗り越えたという話を書こうかな」と考えていました。
そんなことを考えながら、早朝に郵便受けから新聞を取って、家の方へ歩きつつ、ぼーっとした面持ちで1面を眺めていました。
「植松死刑囚 再審請求」の文字に、自然と足が止まりました。
理解することに時間がかかりました。
「どういうこと?」
「控訴を取り下げてなかったっけ?」
「実は心神喪失状態でしたとか言っているの?」
「自分には責任能力があって、意思疎通ができない障がい者はいらいないって言ってたのに?」
正直プチパニックでした。
落ち着いて整理しますね。
皆さんご存知だとは思いますが、今から6年くらい前に障がい者が暮らす施設で、元施設職員が障がい者を狙って19人もの命を奪った事件がありました。
元職員が事件を起こしたと認めていたため、裁判の争点は元職員が責任能力があるかないか(心神喪失状態であったか、どうか)に絞られました。
そのため、元職員の生育歴は?施設内の職員の関わり方はどうったのか?といった、何故このような事件が起こったのかということは深く掘り下げられることはなく、予め決められていたかのように死刑判決となりました。元職員は裁判でも障がい者はいらないという自分の考えを曲げることがありませんでした。
元職員は控訴をせず、死刑が確定、元職員は死刑囚となったのでした。
戦後最悪の大量殺人事件は、こうして消化しきれない、何か嫌な感じを残しながら、終わったかのように思いました。事件の当事者や家族、障がい者や家族はひどく傷つきました。私は何より植松死刑囚を称賛するような人々がいることに打ちのめされたもんでした。それでも、前を向いて生きていこうと進み出し、少しずつ進んでいる感じもあったのに・・・。
正直、再審請求はイラッとしました。何を考えてんだろうと。
また進み始めた歩みを邪魔しようとしているのかと。
とは言っても3年前の私ではありません。ちょっと大人になりました。
3年前は裁判を傍聴したり、面会に行こうとしてました。日本広しといえど、当事者が顔を出してあそこまで立ち向かった人はいなかったんじゃないかな。
それほど怒っていましたし、喧嘩売ってたなあと我ながら思います(汗)
ちょっと大人になった私としては再審請求は権利でしょうから否定はできません。やりたければやればいい。
ただ、もしまた自分の考えを主張したいだけで、人を傷つけたり、人権を無視するような言動をするようであれば流してしまおうと。気にすることは止めようと。
植松死刑囚には言葉がないんですよ。空っぽなんです。それは裁判を傍聴してよく分かりました。耳を傾けるべき言葉はありません。
メディアの方々も、植松死刑囚が人権を無視するような話をするのであれば取り上げないで欲しいと思います。社会全般で無視するのが一番良いと思います。
ではでは。
妻からのヒトコト
私も新聞を読んでなんで?と声をだしました。再審請求に彼がなんの意味を見出したのかわからないからです。
私に傍聴する機会はありませんでしたが、夫から裁判の様子を聞いたり、ニュースなど見たりしてましたので裁判の事はよく覚えてます。一貫して自身の主張を曲げることはなかったですし、被害者やその家族の話を聞いて主張が変わる事も無いだろうなと思っていたので死刑確定で終わりという感じ。死刑囚になると親族以外との交流はできないので、話を聞く事も無いんだろと思っていました。
しかし今回の再審請求。何を訴えたいのか。前と同じ事言うだけならなんのため?と言う感じです。
でもこの事件が忘れ去られてしまう事も怖いのでこれを期に共生社会に向けた話がもう一歩前進したら良いですね。それこそ彼が嫌がっていた事なので。